私(23)の名前の横には「仙台総局員」と書かれていた。昨年2月、まだ入社前だった会社からメールで届いた辞令だ。頭に浮かんだのは、母方の祖母が住む宮城県気仙沼市の風景だった。
11年前の東日本大震災のあと、13歳だった私は家族と一緒に気仙沼を訪れていた。当時は埼玉県に住んでいたが、母が「被災地の姿を直接見せておきたい」と考えたためだ。
電柱はなぎ倒され、あったはずの建物が消えていた。辺り一面は海水につかり田んぼのよう。川べりに死んだ大きな魚が打ち上げられ、腐臭を放っていた。海の深い藍色は変わらず、波を荒々しく岩場に打ちつけていた。
震災発生時、私は小学6年生だった。学校で掃除をしていた時に揺れ、慌てて机の下に隠れた。震度は5強。大きく揺れたものの、街に目立った変化はなかった。
ところが、気仙沼の街は津波で大きく変わってしまっていた。被災地の姿に圧倒され、祖母に津波の話を聞くことができなかった。そんな私は、昨年3月に大学を卒業し、新聞記者になった。
祖母の家は高台にあり、震災時は大きな被害はなかった。あのとき、何を思っていたのだろう。
記者として、祖母に聞いてみたいと思った。
「私の話は以上です」祖母は手をたたいて…
仙台から車で2時間ほど三陸道を走り、インターチェンジを降りる。車はうなりながら急な坂道を上る。その先の2階建ての一軒家で祖母(80)は一人暮らしをしている。
駐車中、玄関がガラガラと開…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル